島根県奥出雲町、船通山の麓に湧く斐乃上温泉に、日本三大美肌の湯を受け継ぐ七室だけの民宿がある。pH9.2のアルカリ性単純泉を掛け流し、囲炉裏で岩魚と山菜を出す。たたら製鉄の里と冬の澄んだ星空を、静かな一泊で受け止めるための一軒として、編集部が推す宿を紹介する。出雲大社門前や玉造温泉から山を越えた内陸、時間が別のはやさで流れる集落の宿である。
※ 目安価格は公式サイト掲載の宿泊プラン価格に基づく参考値です。1泊2名利用時の1名あたり料金(税・入湯税込)で、シーズン・曜日により変動します。

日本三大美肌の湯を、七室の宿で
船通山の麓に建つ、養魚場脇に自家源泉を持つ七室の民宿。pH9.2のアルカリ性単純泉を、加温掛け流しで男女別内湯・貸切内湯・露天(春秋)に注ぐ。
斐乃上温泉 かたくりの里 民宿たなべ HotelPicks Score: 92 / 100 7室、民宿。
目安価格 ¥16,100–¥17,200 / 泊 (2名1室・1名あたり・平日1泊2食付き・税・入湯税込)
斐乃上温泉という湯
島根県仁多郡奥出雲町竹崎、船通山の登山口下。ここに湧く斐乃上温泉は、栃木県の喜連川温泉、佐賀県の嬉野温泉と並んで日本三大美肌の湯の一つに数えられる。泉質は単純アルカリ泉、pH9.2、無色透明、無味無臭。触れると滑らかな、いわゆる「化粧水のような」湯である。源泉温度は約18〜26℃と低いため加温して用いるが、加水はせず掛け流しで男女別の内湯、貸切内湯、露天風呂(春から秋)に注いでいる。
民宿たなべの湯が特別なのは、自家源泉を持つ点にある。宿の隣で営む養魚場の脇から湧く水を、そのまま浴槽に導く。地元の日帰り客と登山客、そして七部屋の宿泊客だけが浸かる湯で、混み合うことはほとんどない。奥出雲町とポーラ・オルビスによる肌科学の共同研究「湯磨きピーリング温泉」部門に選出された事実は、この湯質の裏付けの一つとして触れておく価値がある。
船通山の麓、山小屋風の木造二階建て

宿の造りは、いわゆる山小屋風の木造二階建て。玄関を入ると囲炉裏を切った土間の食事処があり、そこから階段で上がる二階に和室が七部屋並ぶ。客室は6畳から8畳の和室で、部屋数の少なさゆえに、廊下や食事処の混雑がほぼない。トイレ・洗面は共用で、宿泊単価に対して施設は素朴だが、七室で回す小規模運営が生み出す静けさは、都市部の高価格帯宿では得がたい種類のものである。
船通山(1,142m)の登山口までは徒歩圏。宿名の「かたくりの里」は、船通山が国指定天然記念物のカタクリ群生地で、宿の庭先にも花期に片栗が咲くことに由来する。登山客と温泉客が主な滞在者で、周辺は民家と養魚場と山道以外に人工物がほとんどない。夜になると集落全体の光害が極端に少なく、晴天日には天の川まで肉眼で追えるほどの星空が広がる。
囲炉裏で受ける、地の食

夕食は囲炉裏を囲む土間で提供される。宿が自ら営む養魚場から引く岩魚は、刺身と塩焼きの二皿で登場する。透き通った身の刺身、皮まで香ばしく焼き上がった塩焼き。加えて、季節の山菜天ぷら、地元奥出雲産のそば粉を用いた出雲そば、そして仁多米。仁多米は「西の魚沼」と呼ばれる棚田米で、奥出雲の粘土質の土壌と冷涼な気候が生む粒立ちの良さがある。素朴ながら、地の食材を一皿一皿確実に届ける構成である。
秋から冬にかけての別注メニューとして、しし鍋(1人前2,500円税別、2人前から)と奥出雲和牛A5ランクヒレ肉ステーキ(1人前3,300円税別)を提供している。しし鍋は宿の囲炉裏に鉄鍋を吊るして炭火で仕上げる本来の食べ方で、寒い夜に体を温めるための料理である。奥出雲和牛は、たたら製鉄で使役した和牛の系譜を引く「奥出雲の在来牛」を改良した品種で、島根県内でも流通量が限られる。
たたら製鉄の里、鳥髪、鬼の舌震い

奥出雲は、日本古来の製鉄技術「たたら製鉄」の中心地だった。砂鉄と木炭を粘土製の炉で還元して玉鋼を得るこの技術は、日本刀の材料となる純度の高い鋼を生み、平安期から江戸期にかけて中国山地の谷筋で連綿と受け継がれた。宿から車で行ける範囲には、鉄山を営んだ絲原家の記念館、たたら製鉄の炉跡と原料の砂鉄採取地、そして棚田がある。たたら製鉄で削られた山の跡地を米作に転用してできた棚田こそが、仁多米の原点である。
宿の背後に立ち上がる船通山は、古事記でスサノオがヤマタノオロチを退治したとされる神話の舞台「鳥髪(とりかみ)」の地でもある。宮崎駿の『もののけ姫』が中国山地の製鉄集落を世界観の下敷きにしたことは広く知られているが、その原型が徒歩圏に広がっている。集落から車で三十分ほど下ると、玄武岩の柱状節理と甌穴が渓谷を刻む「鬼の舌震(したぶるい)」の遊歩道が続く。国指定名勝の峡谷で、こちらも神話の名を持つ。
冬の澄んだ星空、一泊二日の組み立て

編集部が特に推したいのは、冬の一泊二日である。奥出雲は中国山地の標高400m前後に位置し、12月から2月にかけて積雪が1mを超える日も珍しくない。宿の露天風呂は12月から2月末まで休業となるが、代わりに内湯(男女別+貸切)は通年掛け流しで開いている。冬の内湯は雪見の景色を窓越しに受けながら浸かる形になる。
冬を推す最大の理由は、夜空である。奥出雲は光害が極めて少なく、松江・出雲の市街光は山を隔てて遮られる。冬の乾いた大気は星の輝きを鋭くし、オリオン座と冬の大三角が真上に上がる時刻には、集落の畦道からでも肉眼で天の川の淡い光がわかる。宿から車で十分ほど下った棚田や、船通山の中腹まで登った開けた斜面が観察に向く。厳冬期は凍結・雪道のため車移動は慎重に。
一泊二日の組み立ての例。1日目は昼過ぎに奥出雲入りし、絲原記念館か鬼の舌震で午後を過ごす。15時に宿に入り、内湯で体を温め、囲炉裏で夕食。夜は宿の前庭か、車で少し下った棚田で星空を仰ぐ。2日目は朝食後、船通山の登山口から中腹まで(積雪期は要装備)散策するか、亀嵩・木次方面へ下って玉峰山荘の日帰り湯や絲原記念館を組み合わせて帰路につく。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、当該宿への評価は「湯質の滑らかさ」「地の食材(岩魚・山菜・そば・仁多米)」「静けさと山の空気」の三点に集中している。特にリピーターの比率が高く、船通山の登山前泊・下山後泊として長年利用されている傾向が読み取れる。海外からの利用者は少ないが、フランスや欧州系の温泉学会関係者が湯を目当てに訪れる例も見受けられる、というのが集約データから読み取れる特徴の一つである。
一方で、宿の性格が民宿であることから、施設面の設えは近年の温泉旅館と同じ基準では測れない。トイレ・洗面が共用であること、館内が段差のある木造であること、シャワーの水圧が場所により弱いこと、が集約データからは滞在時の留意点として繰り返し現れる。逆にこれらの設えは「地元集落の宿」という宿の性格を成立させている条件でもあり、施設の新しさや均質さを求める旅程には合わない。
向く人 / 向かない人
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向く:
美肌泉質を核に一泊二日を組みたい大人、船通山登山の前後泊、冬の星空観察を目的とする一人旅・二人旅、たたら製鉄と神話の里を静かに歩きたい旅行者 -
向かない:
幼児連れ(段差のある木造・共用トイレ・車での移動が前提)、施設の設え・付帯設備を優先する旅程、洋食中心の食を望む人、公共交通のみでの移動を前提とする旅程(最寄りの出雲横田駅からのバス便が少ない)
具体情報
- 所在地: 島根県仁多郡奥出雲町竹崎1844
- 客室: 全7室・和室(6畳〜8畳)、トイレ・洗面共用
- チェックイン / アウト: 15:00 / 09:30
- 最寄り駅: JR木次線 出雲横田駅から鳥上線バス 斐乃上温泉行き 約25分(終点・斐乃上荘)、徒歩約10分。もしくは阿毘縁車庫行きバス 約20分、斐乃上荘入口下車、徒歩約40分(2km)
- 送迎: 最寄り駅送迎あり(要事前予約、バス連絡がない時間帯は要相談)
- 車: 松江・出雲市街方面、米子道 蒜山IC・中国道 新見IC 方面から車でアクセス
- 泉質: 単純アルカリ泉、pH9.2、無色透明・無味無臭、源泉温度約18〜26℃(加温掛け流し・加水なし)
- 浴場: 男女別内湯、貸切内湯(有料880円/回)、露天風呂(春〜秋のみ、冬期は燃料事情等で12月〜2月末休業)
- 食事: 夕食は囲炉裏の食事処、岩魚刺身・塩焼き、山菜天ぷら、出雲そば、仁多米。冬期別注:しし鍋、奥出雲和牛A5ヒレ
- 定休: 水曜・木曜(昼休憩と宿泊)、年末年始 12/31〜1/2 冬期休業
- 駐車場: 完備・無料
- 電話: 0854-52-0930
よくある質問
Q. ベストシーズンはいつですか?
A. 目的次第で分かれる。編集部が推す時期は冬(12月〜2月)と春(4月)。冬は光害の少ない澄んだ星空、雪見の内湯、囲炉裏のしし鍋。春は船通山のカタクリ群生(4月中旬〜下旬)と桜。夏〜秋は露天風呂が開き、9月以降は新そばの季節。冬は積雪1m超の日もあり、スタッドレスタイヤ必須で、道路事情の確認は前日必須である。
Q. 予約のタイミングは?
A. 全7室の小規模宿で、水曜・木曜は定休のため、営業日が限られる。船通山カタクリの見頃(4月中〜下旬)、GW、お盆、正月は特に埋まりやすい。予約は電話が確実で、キャンセル規定は5日前まで20%、前日70%、当日100%。冬期は積雪状況によって臨時休業となる日もあるため、直前の電話確認が推奨される。
Q. 子連れでも泊まれますか?
A. 泊まれるが、幼児・未就学児連れには制約が多い。共用トイレ・洗面、段差のある木造二階建て、囲炉裏の炭火、公共交通のみでの到達難などの点で、乳幼児連れの旅程には合いにくい。小学生以上で登山や山遊びに慣れた子どもとの旅なら、船通山のカタクリ観察や岩魚の刺身体験などが良い記憶になる可能性がある。子供A(岩魚塩焼き付き)、子供B(子供向け料理)、幼児など料金体系は用意されている。
Q. アクセスは?
A. 公共交通の場合、JR木次線 出雲横田駅から鳥上線バス「斐乃上温泉行き」で約25分、終点から徒歩約10分。バス便は極めて少なく、宿への事前連絡でバス連絡がない時間帯は送迎の相談が可能である。車の場合、松江・出雲市街から国道314号線経由で約1時間半、米子道 蒜山IC・中国道 新見IC からいずれも約1時間。冬期は積雪・凍結のためスタッドレスタイヤ必須。
Q. インバウンド客の利用は?
A. 数は多くないが、湯質を目的に訪れる欧州系の温泉研究者・愛好家の利用が集約データからは見て取れる。奥出雲は出雲大社・松江城・足立美術館などの主要観光ルートから外れた内陸に位置するため、インバウンド観光の主流とはならないが、山陰の湯めぐりを目的とするリピーター層には静かに支持されている。英語対応は限定的で、日本語のできる同行者か、翻訳アプリの活用が現実的である。
Q. 斐乃上温泉には他に泊まれる宿はありますか?
A. 現時点では実質的にこの一軒のみである。もう一軒あった町営「斐乃上温泉 斐乃上荘」は2022年1月11日より宿泊受付を休止しており、日帰り温泉施設として営業している(再開時期は公式サイトで未告知)。斐乃上荘の湯は別浴槽で日帰りで楽しむこともできるため、宿泊と日帰りの組み合わせで斐乃上温泉の湯を二浴槽体験するプランも成立する。
本記事の参考情報
・奥出雲町公式観光ガイド(斐乃上温泉 かたくりの里 民宿たなべ) — 自治体運営の観光情報
・しまね観光ナビ(斐乃上温泉) — 島根県公式観光情報サイト
・日本温泉協会(斐乃上温泉 温泉地詳細) — 温泉学的な地域情報
・Wikipedia: 斐乃上温泉 — 歴史・地理の背景
編集部から
本稿で扱った宿は、都市部のガイドブックに大きく取り上げられる種類の宿ではない。設備の新しさや、贅を尽くした個室食を求める旅には向かない。しかしその代わりに、日本三大美肌の湯という湯質の核と、たたら製鉄・神話の里という土地の核が、無理なく徒歩と車の圏内に収まっているという珍しい条件を備えている。奥出雲の一軒宿という地方の温泉宿の縮小トレンドの中で、この湯を宿泊で経験できる時間軸は、想像よりも短い可能性がある。斐乃上の湯にゆっくり浸かる旅と、冬の澄んだ星空を仰ぐ夜。次に山陰の内陸を歩くとき、選択肢の一つとしていかがだろうか。



